そこにいるのが当たり前だった存在が、もういないということ。

私が一度も書いたことの無いジャンルですが、今日は書きます。

実家の犬、ゴン太が亡くなりました。

病気は脳腫瘍でした。

顔が変形し、毎日のように出血していて、見ているだけでもつらい状態でした。

家族にとっても、ゴン太本人にとっても、本当に苦しい時間だったと思います。

正直に言うと、私は動物が得意なほうではありません。

犬と積極的に触れ合うタイプでもなく、
ゴン太を散歩に連れて行ったのも、たった一度だけでした。

それでも、ゴン太が亡くなったとき、そして最後の姿を見たとき、
自分でも驚くほど悲しい気持ちになりました。

状態が悪くなっていく中で、安楽死も自分の提案にありました。

これ以上苦しませることが、本当にゴン太のためなのか。

そう思う瞬間もありました。

しかし、父は反対しました。

その判断が正しかったのかどうか、今でも簡単には言えません。

苦しみから早く解放してあげたいという思いもあります。

一方で、最後まで命を全うさせたいという思いもあります。

どちらも、ゴン太の命に真剣に向き合ったからこそ出てきた気持ちだったのだと思います。

死に目に会えませんでしたが、亡くなる直前、ゴン太は大きな鳴き声をあげたそうです。

それが苦しみだったのか、何かを伝えようとしたのかは分かりません。

ただ、亡くなった後の顔は、とても安らかでした。

あれほどつらい状態だったのに、最後の表情は本当に穏やかでした。

ようやく苦しみから解放されたのかもしれない。
そう思うと、悲しみの中にも、少しだけ救われるような気持ちがありました。

私が毎日世話をしていたわけでもありません。
散歩も一度しか行っていません。

それなのに、こんなに悲しいのです。

家の中に命があったということ。

そこにいるのが当たり前だった存在が、もういないということ。

深く関わっていたつもりはなくても、
ゴン太は確かに家族の一部であり、私の生活の一部でもあったのだと思います。

動物が苦手でも、悲しいものは悲しいです。

たくさん世話をした人だけが悲しむわけではないのだと知りました。

どうか、ゆっくり休んでください。
今はただ、そう願っています。

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